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コラム
 
 「医者が始める高齢者住宅」
  NPO福祉マンションをつくる会(大阪市)
中村 正廣 氏 

 「決め手は、医療が付いているか、でしたね!」
父の残した土地の有効活用が先か開業が先か悩んでいた時に、大阪市内で高齢者向けサービスつきマンションを運営しているグループに出会って10年が経っていた。

 介護を含め高齢者の生活にかかわる事になって、私の頭からはみ出た知らない事ばかり。NPO法人の「福祉マンションをつくる会」の熱心でおばちゃんパワーに溢れるグループにかかわり「高齢者が住むためには、医療がいるんや!」の強烈な意気込みに圧倒され「一緒に組むならできるやろ」の一言で、クリニック開業後5年がたって介護付き有料老人ホーム(このグループはハウスと呼んでいる)を始めた。

 元気型と介護型が階を別けて住居を持ち、時に同じ生活をしながら大家族的生活を始めてもう約4年になる。NPOと一緒にハウスを運営する会社がその大家族を面倒見ているが、入居される高齢者には、医者の私が大家なので、会社がつぶれても私がその後をすると説明をして「それなら安心感があるわ」と入居を決められた方がほとんどである。始めは「休みなしでえらいことになった」「まあ、しばらくは何とかがんばる!」と自分に檄を飛ばしいた。

 オープンして1ヶ月ほどたって、奥さんに先立たれた80過ぎの独り身の男性元教師が、食事が入らず痩せてきた。入居時には検診をしていたが、胃がん術後5年目という事で、詳しい検査をせずやや気楽に診ていた。肝臓に転移していてどうしようもない。ここで死ねるハウスを目指していたので、元看護師のハウス長に「入院は本人の本意ではない」との思いを確認して、常駐の看護師とヘルパーに自分の住まいで最後まで看よう、と話をした。とくに点滴もせず、口からに任せ酸素のみで最後の2日間を介護型の部屋に移して看取った。遠くからの親族に見守られて、職員の葛藤の中での静かな往生だった。

 その後、ハウスを自宅としている元気型の入居者は緊急以外は全員、在宅死である。当初は看護師やヘルパーの臨死経験が少ないため、いざという時の病院搬送など医療の少ない看取りに戸惑っていたが、最近は本人や伴侶の意思を尊重し、他の入居者の見送られ方を見て、ほとんどの入居者もハウスでの在宅死を望まれるようになった。つくづくこのような医療が出来る町医者になって良かった、と思う。ところで、私の縛られ方はハウス内に看護師が常駐し、夜間は連絡により大方は看護師の判断で終わる事が多いため意外と緩やかである。時に、近くの診療所や病院の先生に往診や入院をお願いして、危急の用件を助けてもらっているからでもある。最終は私の出番になるが、殆ど医療がいらない看取りになる。

 昨年の夏に、同じ「つくる会」が建てた高齢者の住む集合住宅を訪ねる機会があった。東京の下町の日暮里にある小学校の跡地に、元気(ライフ型と名づけている)な高齢者と介護の必要な(シニア型)、そして多世代が共同で暮らすコレクティブ型が一つの大きな建物に入り生活を始めている複合の集合住宅を訪ねた。住む人の意欲や親を預ける家族の期待は、やはりいいお医者さんが、そこで開業してくれ一緒に生活をしてくれたら、という願いである。都内でもこれほど形態の違ったしくみでの大規模な住宅はなく、完成時には大きく報道された。当然、元気な高齢者は社会参加もしていて日中は殆ど部屋にいない。介護型は全室個室で少人数に別れたユニットで生活をしていた。多世代のコレクティブ型は、居室のドアは別で中に入ると一つの部屋がつながっているところや、食事はグループ分けした班が週ごとに食事を作り、それを皆が一緒に食べるなど、多世代が一つの大家族的な暮らし方をしていた。その建物の1階に20人の子供がいる保育所があり、入居者の高齢者が手伝っていた。多世代がお互いを助け合って意欲的な生活をするための仕組みは揃っている。そこにも診療所があり、入居者は勿論、周囲の住民も利用している。しかし、診療時間が終わると先生は帰り、緊急時の対応は看護師以外、周囲の病院に頼っているのである。

 一方、昨年末に伊豆半島、修善寺の山間の「中伊豆町」に「つくる会」が建て、1年が経つ「友だち村」を訪ねた。老後の生きがいをあえて田舎に求め、志のある人が集まって住む試みとしてニュース・ステーションに、今年には、NHKの朝の「生活ホットモーニング」に、「生きがいを求め、受ける介護よりお互いが介護し合う試みの集合住宅」として取り上げられていたのでご存知の方もあると思う。田舎にはモダンすぎるぐらいの円形のモダンなライフハウスを「友だち村」と称している。ここに足りないのは、安心して住み続けるためのいいお医者さん、であった。入居が始まって1年が過ぎようとしているときに、「友だち村」の提唱者でもあり、女性活動の先駆者でもあった小西 綾(99歳)さんがそこで亡くなった。その時に看取りをした医師は、近くで開業3年目の若い内科医だった。その看取りが自然で、入居者は安心感を持ち、かかりつけ医となるきっかけが出来た。意欲満々の元気な高齢者であっても健康の不安はもっとも大きな心配事で、「やっと医者が見つかった」、とお世話するほうも喜んでいた。

 今年には、大阪と名古屋で、大きな公団住宅の一部を高齢者対応型にして、そして介護がある部屋も作って医療のある高齢者住宅にするので医師を探して欲しい、つくる側も入るほうも医療があることを条件としてる、と相談された。さいわい大阪では、訪問診療のベテランの先生が名乗りを上げてくれて、入居する決断のはずみになった、と聞いた。高齢者が安心して住む条件に、如何に医療が大きな役割を持っているかをNPOにかかわって分かってきた。

高齢者住宅に併設する診療所では、特別な医療やテクニックはいらない。町の開業と何ら変わりがない。ちょっとした体調の不安や今までの治療の継続を心安く引き受けたり、脈をとる振りをしてご老人の体に触りながら笑顔で優しく話しかけることや、電話や要請があれば腰軽く往診に行っては安心させたりすることで十分な信頼を得る。高齢者の患者に慣れた医師としては当たり前の診療行為であるが、これをきちっとすれば大いにその入居者に気に入られるのである。「老人相手の医療をする気はない」とメスを持ち、第一線の医療を続けたいと思っていたときの事を考えると、今の私の姿は到底考えられなかった。

 一方、最近は、開業医にはかかりつけ患者を多く持ち、開業場所に根を生やして住み込んでいても、門を開けているだけでは患者さんは来なくなってきている。自分から出かけて行き、在宅で最後までという患者の願いを可能な限りかなえていくことがこれからの開業医には必要と思われる。高齢者住宅に関わって、ご老人の最後に主治医(今は、かかりつけ医)の私が「最期を看取ります」と約束し、高齢者と共に住み「いつでもいますよ」と声をかける使命が町医者の果たす役割にあると思う。

 下町の東成区は数年後には市内で最も高齢者の多い町になり、また開業医の高齢化率も進んでいる。開業場所に住み部屋の明かりを灯しながら町内会の一員となり、患者さんから「行きつけのお医者さん」で「わたしの家族も」と信頼され、そして訪問看護師や開業医同士が手を組むことが、高齢者や患者さんが安心して住み続ける町づくりの大きな要になる、と思う。以上、これからの開業される会員の先生の参考に、と私の開業観を述べさせて頂いた。         
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